とある人が"苦労して手に入れたものが本物で楽に手に入ったものは偽物"というようなことを言っていた。
「あぶく銭は身に付かぬ 」「正直の儲けは身に付く」などと似たようなニュアンスのことわざもある。
振り返ってみて確かにその通りだなと思った。
今まで楽に手に入ったものでいいことは無かったし、実際、苦労して手に入れたものばかりが身の周りにある。
しかもそれは苦労して手に入れたからなのか"本物"だとか"価値ある"ものとは思わず空気のように感じてしまっている。
少し前の自分は通信制高校に通って半ニート生活を送っていた。
しかし、今は結果的に停職に就けて、新車を購入し、合気道をはじめ、彼女も出来た(別れたが)彼女との毎日も幸せだった(別れたが)
これらは楽に手に入れたわけではなく、あがいた結果こうなった。
あの頃の自分が今の自分を見たらずいぶんなリア充に見えることだろう。しかし充実している実感が薄いというかそれほどでもない。
なぜだろうと考える。
自分は毎日あがいていた。因果応報の"因果"を増やすべく必死にいろんな経験をしようとあがいていた。
つかんだ仕事を頑張り、合気道場の門を叩き、人脈を広げ、パラグライダーで落っこちたり(死んでない)、山奥でキャンプしたり、道場に住み込みで修行したり・・・
苦労をして積み上げたものと付随する"応報"は、こうして知らないうちに大きなものになっていた。
徐々に大きくなっていたものだから、現在の大きさと感覚がすっかり分からなくなっていたのだ。
苦労をして手に入れたものは知らないうちに手に入ってるため実感はない。実感がないが故に気づかないが実は既に確かなものを得ている。
そこで少し前の自分の物差しを引っ張り出して、現在の大きさを測ってみると、とてつもなく大きいものだった。
その大きさは、職場では主力スタッフとして働けており(土日祝日休める)、マイカー有りで、武道をやっている、気づいたら信頼できる仲間も大勢とは言えないが増えていた。
過去と比較すると なんちゅうリア充だれだこいつ と思うのである。
今抱えているどんな悩み事でも、過去の自分からしてみたら「贅沢な悩みだな」と不貞腐れるに違いない。
多少の不幸(彼女と別れるなど)があったとしても、それは些細な事と考えることができるようになった。
現在どれだけ充実しているかは、過去と比較しなければ見えないようだ。
過去を振り帰っての比較は、未来へ生きるためには不要なことであり、個人的にはあまり望ましい行為とは思えないが、自分の立ち位置を知るために、過去と現在を比較して見つめるというのもありかもしれない。
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