旧中島飛行機地下工場跡

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北部西長岡町の八王子丘陵に総面積16.9haもの広大な「八王子山公園墓地」という公園墓地があります。
その一角に「旧中島飛行機地下工場跡」の入り口のトンネルがひっそりと存在するという噂を聞いたので向かってみることにしました。

八王子山公園墓地:
http://www.city.ota.gunma.jp/020sisetu/02sports/hachiouji.html

入り口のゲートを通り、丘を登っていくと墓地が見えてきました。この公園墓地は17:00にはゲートが閉まり、入れなくなるようです。

この公園墓地なんとバス停まであります。

おうかがい市バス 停留所 No.4・・・ということは複数あるのでしょうか。

さまようこと数分。それらしい場所を発見しました。イノシシよけと見られる柵があります上の3本の線はおそらく電線でしょう。
扉は施錠されておらず、絡んだチェーンをはずして開けて入りました。

階段を上っていくと開けた場所が現れました。

左手には看板が

旧中島飛行機地下工場跡 ・所 在 地 太田市大字西長岡地内

 このトンネルは、太平洋戦争の最中、昭和20年(1945年)に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦を迎えました。(注1)  終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われましたが、調査に訪れた日(1945年11月13日)には、すでに全ての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中を覗くことができたといいます。  この地下工場の掘削は、昭和20年1月から始まり、1500人(注2)が十時間交替で働いたといわれます。4月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた280人の中国人も動員されましたが、過酷な労働と栄養失調のために、昭和20年5月から終戦後の11月までの七ヶ月間に、50人の中国人が無残な死を遂げました。  昭和20年11月1日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から捧持してきていた遺骨も一緒に長岡寺の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。石碑には85名の殉難烈士の氏名と、帰国することが出来た中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、昭和28年(1953)8月には遺骨の発掘慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に収められています。

 この説明板は、昭和47年(1972)に、日中友好協会群馬県連合会の手によって立てられた「トンネルの由来」を記した説明板が老朽化したため、戦後50周年を記念し、平和への願いをこめて、立て替えられたものです。  (この説明板の文章は、「米国戦略爆撃調査団報告書」(太田市史 資料編 近現代)及び日中友好協会群馬県連合会発行の「トンネルは訴える」を参考に作成しました。)

(注1)終戦の時点で、幅13フィート(約4m)、高さ11フィート(約3.4m)の地下道30本が掘りぬかれ、木材の支柱が立てられていたといいます。これは、計画されていた範囲の1/2に相当します。 (注2)この数字は、米国戦略爆撃調査団の報告によるものです。他の資料によると、280人の中国人のほか、2000人を越える朝鮮人や数百人の日本人も工事に携わっており、あわせると3000人以上にもなります。 平成8年(1996)3月31日  太田市教育委員会

現在の衛星写真と照らし合わせてみました。でかい地下軍事工場があるという話は聞いていたものの、図を見てびっくり、想像を超える規模のものでした。

現在、この地下工場跡の上はゴルフ場になっています。終戦後の調査時に既にほとんど崩れていたとのことなので現在はもう完全に崩壊しているでしょうね。しかし図を見る限り相当な広さです。これを3000人がおそらくほとんど手作業で掘っていたと思うとすごいですね。

【北関東の戦争遺跡】旧中島飛行機地下工場(群馬県太田市):
http://www.sankei.com/region/news/150820/rgn1508200059-n1.html

 ■特攻機製造拠点 未完のまま終戦  太田市。北関東随一の工業都市であるこの街には、飛躍的な発展を遂げた富士重工業がある。同社の前身は、終戦まで高い技術力を備え、日本の航空機やエンジンメーカーとして東洋最大、そして世界有数の航空機メーカーの中島飛行機製作所だった。元海軍機関将校の中島知久平が大正6年12月に飛行機報国を念じて創設した。  創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。  なかでも、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」は、陸軍を代表する戦闘機の主力機として使用された。だが、数々の偉業を成し遂げた中島飛行機は、米軍の戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ、B29による爆撃で太田工場は徹底的に破壊された。  米軍の空襲を避けるため建設を進めた旧中島飛行機太田地下工場は、広大な太田市八王子山公園墓地(西長岡町)の奥にある樹木に覆われた人目に付きにくい丘陵地に残る。戦局が悪化し、本土決戦に備えて昭和20年1月に建設を開始。特攻機の製造を目指したが建設途中に終戦となったという。  地下工場の建設作業に携わったのは1500人とされ、10時間交代の突貫工事だったといわれている。計画では1トン爆弾に耐え、工場の規模は約2ヘクタール、操業開始は20年11月としていた。  「旧中島飛行機太田地下工場を保存する会」の代表で、戦争遺物に詳しい石塚久則さん(68)は、「戦後、米国の調査団が入ったときには、工場につながる地下道は崩壊していた」という。  太田市史によると、「終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われたが、調査に訪れた20年11月13日には、既にすべての入り口が崩れ落ちていたため、工場の地下道の調査は不可能であった。幅13フィート、高さ11フィートの地下道30本は完全に掘り抜かれ、木材の支柱が立てられていた。工場内には工作機械は設備されず、運び込まれてさえもいなかった。たった1本のかろうじて小型四輪駆動車が通行できるような非常に狭い道を通って、工場跡地までたどり着いた」としている。  石塚さんは、「地下道の入り口は土が柔らかく、崩落の危険性があり中には入れない。ただ昔、村の子供が入り込み迷子になったという話は聞いている。未完成だったが、とても広かったのではないか」と話す。  地下道は今、金属の円筒で補強され、入り口前には「立ち入り禁止」の看板と柵が設置されているだけである。(前橋支局 平田浩一)

「ただ昔、村の子供が入り込み迷子になったという話は聞いている」・・・

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