赤城神社に置いてある古いボロボロのノートの噂

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この間、サイクリングをしているとき休憩がてらに、とある小さな"赤城神社"に寄ってみました。
深緑の木々に包まれながらひっそりと佇んでいる鳥居に心惹かれたんです。まあいつもの事です。
どうやらこの神社には「願いをノート書いて祈願すると叶う」という噂があるようです。今回はそのノートとやらを探索に行ってみました。(後付理由)



鳥居越しに左奥を見てみると大きい横穴が見えました。近づいてよく見ると花崗岩っぽい岩で、明らかに人工的に掘られています。何かの採掘でもしていたんでしょうかね。



鳥居の前で後ろを振り返るとハニーポットが設置されていました。

分蜂郡捕獲箱


箱の周りを飛んでるミツバチを数匹確認しました。間違いなく中で暮らしてらっしゃいますね。
この間の"鳥目ちゃん"と同じように"鳥居の前では犯罪をし辛い"という心理を狙って鳥居の前に設置したのでしょうか。
もしかしたら、ただ単に滅多に人が来ない場所だからという理由かもしれません。

鳥居をくぐり、石段を上ってみるとヤシロの隣に古いトタンの建物。さらにその隣にはシロアリに食われかけた絵馬が数十個ほどかけられています。





ヤシロの隣のトタンの建物が気になり、近づいて調べてみるとボロボロなノートが7冊と鉛筆が置いてありました。





小学生が使うようなジャポニカ学習帳と連絡帳、それと大学ノート。
カビが生えており、ところどころ虫食いはありますが字は問題なく読めます。

~ノートがアーカイブに追加されました~

中身をみて見ると、まじめなモノからちょっとこれは・・・というようなモノまで願い事がギッシリ
面白くてついカビ臭いのを我慢して7冊全部読んでしまった。

ギャンブルで食っていけますように、パチンコで設定6の台があたりますように、競艇で勝てますように
○○戻ってきてくれもう一度やり直そう、野球部が全国大会いけます様に、○○高校合格


時代を感じる書き込みも


珍しい一途な子の書き込みも


相当一途のようで平成8年の4月から10月まで10回くらい書き込んでありました。

最後の書き込み

うわぁ(歓喜)

カネ、地位名声、愛がらみの書き込みの中、いくつかは安産祈願や健康祈願などのささやかな願いもありました。

書き込みに添えられている日付のほとんどが90年代前半です。しかも足利,伊勢崎,桐生など隣の市や、埼玉県大宮市(2001/5/1合併→さいたま市)から来たという書き込みもありました。
ちょうどこの頃に雑誌か何かに載ったんでしょうかね?ネットの普及していない頃なので、口コミにしては時期が集中してますし、こんなちっぽけな神社に他県からわざわざ足を運ぶとは思えません。

一番古い書き込みが1993年1月3日


書き込みは90年代後半からぴたりと途切れ、それ以降書き込みはまばらで、最近の書き込みが2013年5月でした。
20年以上もの間ノートがここに存在し続け、色々な人がここを訪れてノートに願い事を書き込んでいく。
そして4方がトタンで囲われているといえ、ほとんど屋外なのにもかかわらず、現在も読めるほどのコンディションを保っているノート。
感慨深いですなぁ

意外と多かった書き込みが競艇やパチンコや宝くじなどのギャンブル関係で全体の3,4割ほどを占めていました。
運が結末を決めるゲームでは神頼みしかできませんしね。

そんなこと考えていたらこんな書き込みを見つけました。バブル崩壊直後の書き込みです。


将来の不安に苛まれている様子が文章で感じ取れます。自分ではどうしようも無いことに直面したら誰だって神頼みでもしたくなりますよね。
お願いをした国定忠治様というのは何者でしょうか。

ググッたら結構有名な人のようで、wikiに記事があったので要約してみました。
国定忠治(1810-1851) 出身地:現在の群馬県伊勢崎市国定町
江戸時代後期の侠客。後に博徒となって現在の群馬から長野で活動し、一帯を盗区(縄張り)として実行支配した。
1833-1837年の天保の大飢饉の際、盗区の村々に支援を行っていたが、1838年賭博場の一つが関東取締出役により襲撃され、子分の三木文蔵が捕縛された。
三木文蔵の奪還を試みたが失敗し。後に子分の三木文蔵、神埼友五郎、八寸才助らは処刑され、一家は打撃を受けた。
1846年ごろから中風を患っていた忠治は上州(群馬)の盗区で匿われていたが、1850年には田部井村名主家において関東取締出役によって主要子分と一緒に捕縛された。
勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。
博奕や殺人など様々な罪があったが、最も重罪である関所破り(碓氷関所,群馬県安中市)により、上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町)に移送され、磔の刑に処される。
享年41。

辞世の歌:
惜しむより恨み大戸の我が身故あの世に行くぞ楽し長岡

戒名:
長岡院法誉花楽居士(養寿寺)
遊道花楽居士(善應寺)



この肖像画は足利の画家である田崎草雲の手になるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。

侠客とは「強気をくじき、弱きを助ける」という仁義を建前とした渡世人の総称のことを差し、封建時代における風習の一つと捉えられます。
天保の大飢饉の際の支援が評価されて侠客といわれるようになったそうです。飢饉の際の彼の活躍は脚色され、講談・映画・新国劇などの演劇の題材とされてきました。
逸話として、群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺にある忠治の墓から、ギャンブルにおいてご利益があるとして墓石を削り取って持ち帰る人が多かったそうです。
そんなことしたら逆に金を巻き上げられそうな気がしますがね・・・

このような背景があって、国定忠治の支配下の群馬にあるこの赤城神社にギャンブル関係の願い事を書き残す人が多いのかと思われます。
まあ赤城神社と国定忠治は直接関係していないんですが。願掛けってそんなもんですよね。



「この神社に訪れ、願いをノート書いて祈願する。」
20年以上もひっそりとつづく伝統?のようなものが行われていて、それは多くの人には知られることも無く、これからもひっそりと続いて行くことでしょう。
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